#64 真偽 長曽祢虎徹 KOTETSU最大の謎!! 長曽祢虎徹が刻した「東叡山忍岡辺」ってどこ?!

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  • Опубликовано: 29 июн 2024
  • #日本刀 #日本刀販売品 #日本刀銀座 #日本刀東京 #刀剣
    #64 真偽 長曽祢虎徹
     KOTETSU最大の謎!!
     長曽祢虎徹が刻した「東叡山忍岡辺」ってどこ?!
    脇差 銘 長曾祢興里作 住東叡山忍岡邊
    延寶四年八月吉日
    前回、評価鑑定を依頼された長曽祢興里(虎徹)の脇差の銘に刻されていた、「住東叡山忍岡辺」の地名。虎徹は承応~明暦頃江戸に出府したと考えられ、以後は生涯江戸で作刀しておりました。虎徹の足跡は様々な書物に記され、明治以後も第一線の研究家の諸先生方によって詳細な研究がなされておりますが、虎徹が居住したこの「忍岡辺」が具体的にどこであったのかは、未だ決定打と言える説が出ておりません。
    日本刀専門店銀座長州屋代表の深海が、40年を超す鑑定歴で培った刀剣への知見と鑑識眼、そしてそれらに裏付けされた観察を以て、この長く結論が出されることのなかった「忍岡邊」の正体について考察してまいります。「大久保虎徹」で知られる大久保一翁、『長曽祢乕徹の研究』の杉原祥造、佐藤寒山、福永酔剣、『日本刀銘鑑』の石井昌国…、名だたる蒐集家、虎徹研究の第一人者とされる先生方の研究諸説を一つずつ採り上げ検証し、さらに上野という町が、江戸時代から現代に至るまでどのような変化を遂げているのかという視点も加えながら、考察し結論を導き出しました。
    新刀の横綱と称される虎徹の研究としてのみならず、開幕から現代に至る四百余年間に大火、地震、戦争といった人災天災によって絶えず破壊と再生を繰り返した上野という土地の歴史という面からも興味深い内容となっております。
    解説 深海信彦
    アシスタント 今津
    編集 今津 寺尾
    www.choshuya.co.jp/
    • #64 真偽 長曽祢虎徹 KOTETSU最大...
    #64 Truth or Fiction: Nagasone Kotetsu
    The Biggest Mystery of KOTETSU!!
    Where is "Tōeizan Shinobugaoka-hen" inscribed by Nagasone Kotetsu?!
    Wakizashi inscription:
    Made by Nagasone Kōri (Kotetsu)
    Residing near Shinobugaoka of Tōeizan
    Auspicious day, August, 4th year of Enpō (1676)
    In the previous episode, we discussed the place name "Residing near Shinobugaoka of Tōeizan" inscribed on a wakizashi by Nagasone Okisato(Kotetsu) that was submitted for appraisal. It is believed that Kotetsu moved to Edo around the Jōō to Meireki era and continued to make swords in Edo for the rest of his life. While Kotetsu's footsteps have been recorded in various documents and studied in detail by leading researchers since the Meiji era, there is still no definitive theory about the exact location of "Shinobugaoka-atari" where Kotetsu resided.
    Fukami, the representative of Ginza Chōshūya, a specialized Japanese sword shop, will examine this long-unsolved mystery of "Shinobugaoka-atari" using his expertise and observational skills cultivated through over 40 years of appraisal experience. We will review and verify the theories of renowned collectors and leading Kotetsu researchers one by one, including Ōkubo Ichiou known for "Ōkubo Kotetsu", Sugihara Shōzō of "Research on Nagasone Kotetsu", Satō Kanzan, Fukunaga Suiken, and Ishii Masakuni of "Japanese Sword Inscription Encyclopedia". Additionally, we will consider how the town of Ueno has changed from the Edo period to the present day, to draw a conclusion.
    This content is not only interesting as a study of Kotetsu, who is called the Yokozuna of the Shintō period, but also from the perspective of the history of Ueno, a land that has repeatedly been destroyed and rebuilt over more than 400 years due to human-made and natural disasters such as great fires, earthquakes, and wars.
    Commentary: Nobuhiko Fukami
    Assistant: Imazu
    Editor: Imazu, Terao

Комментарии • 9

  • @dt2576
    @dt2576 25 дней назад +2

    日本刀銘鑑(編著:石井昌国 雄山閣)、早速買い求めました。刀のなかごに切っている銘にもその当時を写す生活環境や仕事場など、心象風景があったのでしょうね。書物ではなく、江戸幕末を生きた1人の刀工が時を越えて自分の周りの状況を刀の銘にきり、また、それを現代の御社代表取締役の方が時空を越えて、つまびらかにしている動画は大変、含蓄のあるもので感銘致しました。
    動画配信、有難うございました。

  • @user-qe3kr2bo6c
    @user-qe3kr2bo6c 25 дней назад +3

    山本兼一さんは不忍池の近くに想定して、いっしん虎徹を書いていらっしゃいましたね

  • @354e2
    @354e2 24 дня назад +2

    今回も大変勉強になりました
     ありがとうございます
    虎徹がわざわざ『不忍の岡“辺り”』とされているのも、その岡を眺められる土地に鍛冶場を置いて“大和武尊”を心の拠所として偲んで作刀していたのでしょうね

  • @concondayo35
    @concondayo35 25 дней назад +4

    いつも勉強させて頂いてます。
    ところで12:34で竹生島として書かれている島は沖島です。竹生島はもっと北の小さい島です。念の為。

    • @yoshio3823
      @yoshio3823 25 дней назад +2

      日本の淡水湖で人の住んでいる唯一の島。
      小学校もあります。 近畿地方に住んでる人であれば、わりとメジャーな情報。

  • @user-cb2ge5ug4d
    @user-cb2ge5ug4d 12 дней назад

    一振の刀の生まれた里は では無いかって事ですね。善き勉強に成りました。意味深し 一振の刀。

  • @mikazuki230
    @mikazuki230 24 дня назад +2

    幕末の上野戦役があったり上野には旧幕府側の彰義隊が守備していたから?
    新選組組長の近藤勇のセリフ(今宵の虎徹は血に飢えて候!)は大有名!
    実際は近藤が五条大橋を渡り終える手前辺りで旧幕府側同士の会合帰りで近藤は薩摩武士3人又は4人と遭遇して近藤は自分は少々ほろ酔いだが今所持している佩刀は天下の虎徹だ!薩摩武士3人ぐらい1時間もかからないだろうと思い薩摩武士と斬り合いをしましたが近藤の予想を裏切って時間1時間以上経過してしまい近藤も多少手傷を負いましたが2人の薩摩武士を斬り1人は刀が半分折れて使え無くなったので逃走した!斬り合いの騒ぎを聞いた五条大嘘近辺の住民がざわつくようになったので薩摩武士はこれは長居すると不味いと思いいそいそと逃走した
    近藤は抜身の虎徹を鞘に収めようとしたが虎徹は刀身がやや曲がり切先もややかけてしまい鞘に収めるのに30分でようやく鞘に収めることが出来たが近藤はもう二度と虎徹を使わないと心に決めた!と(故)子母沢の新選組遺文にて書いてありました!
    池田屋での佩刀は実は源清麿作の1振りで3番隊長の斉藤一が骨董屋の棚にて飾られていたのに一目惚れして蓄えていた給金で買入したが斉藤一が清麿を佩刀していたのを観た近藤が(斉藤君!君の今所持している佩刀を私に譲ってもらえないだろうか?斉藤君の目利きならまた直ぐにこれより良い刀が見つけられる!)斉藤も居長直々に等しく言葉をかけてもらったのでその場で清麿を近藤に譲った!
    3番隊長斉藤一の佩刀は鬼子母神!!

  • @anoverwatch
    @anoverwatch 19 дней назад +1

    足利細川の上野が幕府指南家で、虎徹さんは足利細川の家臣甲冑師虎徹なら上野(こうずけ)つまり武蔵足利幕府指南家の日光東照宮の辺りでは無いでしょうか?祖母が言い残した伝承では"虎徹夜闇を空を切る刃音"にあたり、ヒューヒューと鳴き龍の様に音を出すそうです。足利細川の刀工の元、甲冑師に有名な梅と龍を刻む刀工も任された人が居たらしいです。甲冑師で彫金師で刀工でもあり梅龍が刀身に掘られ、彫り物でイナセかつ、指南家刀身という価値であったはずです。新撰組の夜打ちには虎徹が夜闇に響いたという伝承から、新真虎徹は足利の梅龍が彫られてるのでは?間違いかもしれませんが、私の家も中山道の官軍でして栃木の回向庵に御参りに行く者ですが、、間違いならお見逃しを、、私的には上野国足利細川刀工住地が東叡山かもと思いまして、、DM致しました。失礼しました。

  • @anoverwatch
    @anoverwatch 19 дней назад +1

    因みに比叡山は足利義輝が身を隠し、配下の明智光秀に義満とを計らい、関東管領上杉の元、武蔵上野国に住まいした事に因んで東叡山として明智光秀と家康で足利義輝を祀り日光東照宮を建てたとしたらそうなります。上野国足利細川が代々指南役とされた理由は義輝が剣豪かつ、新陰流の祖とされ宮本武蔵やもしれん事、氏家卜伝やもなりし得体の知れない方だったともされ、幕府や侍なら足利細川義輝を馬鹿にする者は居りません。そんなとこからの記録考察に過ぎませんが、、、